2016年9月、夏休みが明けて子どもたちが元気に登校してくる朝、神奈川県横須賀市の小学校で一人の女児が中庭で突然、倒れました。その女の子は当時、小学1年生のSちゃん(6歳)で、3歳のときに心筋症と診断されましたが、激しい運動は避けつつも、学校に通ったり、友達と遊んだりと普通の子どもと同じように日常生活を送っていました。 この日は、ひさびさの登校日ということで、付き添いで来ていたお友達のお母さんが居合わせたことが幸いしました。すぐさま中庭に面した保健室に養護の先生を呼びに行き、お友達のお姉さんが職員室に走りました。Sちゃんが倒れたことが告げられると教職員が即座に行動。保健室にあるAEDがすぐに届けられ、元消防局員だったという用務員さんの手で一次救命処置が試みられました。 Sちゃんのまわりには先生が集まり、みんなが命を助けようと必死に救命活動に及んでいました。学校の教職員も、入学時にご両親からSちゃんの心臓の持病について相談を受けていたので、もしものときの対応策を考え、備えていた矢先の出来事です。 Sちゃんのご両親は、そのときの状況をこう振り返ります。 「お友達のお母さんが居合わせてくれた幸運に加え、学校側のAED体制、また心疾患を抱える子どもへの心構え、さらに一次救命処置に詳しい学校職員がいらっしゃったこと――学校管理体制が整っていたことが、娘にとってとてもありがたく、幸いしたと思います」
救急車が到着すると、Sちゃんは救急救命士の処置を受けて病院に運ばれ、一命を取りとめました。AEDから取り出した心電図データからは、心筋症と合併して致死性不整脈(心室細動)を起こしていたことがわかりました。「現代医療で何とかして娘の笑顔を取り戻したい」そう強く決めたご両親の思いに反して、転院先の東京大学医学部附属病院で、治療法のない難病である「左室心筋緻密化障害」との診断が下されます。治療で元気になって日常生活を取り戻すという願いは叶わず、Sちゃんとご両親は心停止の恐怖におびえながら、終わりの見えない闘病生活を送ることになったのです。 左室心筋緻密化障害とは、左室の心筋が成熟せず間隙が多くなっている状態で、不整脈、心不全などを起こすリスクが高い病気です。明確な治療法は確立しておらず、予後についても不明で、Sちゃんは致死性不整脈による突然死を防ぐために、ICD(植え込み型除細動器)という電気ショック機能を有する医療機器を胸に埋め込む手術を受けました。 ICDは「いつ心臓突然死を起こすかわからない」という危険から患者を解放する治療手段ですが、その反面、患者は作動の恐怖をつねに抱えることになります。Sちゃんの胸に埋め込まれたICDは頻繁に作動しました。そのたびにSちゃんは大きな恐怖に襲われて、起き上がったり、歩いたりする心拍を上げる行為を怖がるようになります。 やがてSちゃんは自分がつながれた心電図モニターの波形を読み取れるようになり、ベッドでじっと横たわりながら心電図を見つめるようになりました。入院中、致死性不整脈はたびたび起こり、心停止に至ることもありました。いつ心臓が止まり死に至るかもしれない――24時間、いつ娘の命を奪われるかもわからない銃口を突きつけられたような日々の中、ご両親は「心臓移植」を決意します。
ご両親はSちゃんの心臓移植を決意しましたが、それは困難な道のりでもありました。なぜなら日本は先進国の中でも移植医療が遅れており、小児の心臓移植の待機期間は長期におよび、待機中に亡くなってしまう子どもが後を絶ちません。なんとかSちゃんに生きてほしいと願ったご両親は、移植医療の進んだアメリカでの移植を選択します。そして、支援団体が発足され、2018年5月にアメリカのコロンビア大学病院でSちゃんの心臓移植が実現しました。手術を無事終えたときのことをご両親はこう振り返ります。 「手術室から戻ってきた娘の心臓の鼓動に生命力を感じ、感動しました。何度も生死を彷徨った娘が、さまざまな方たちの想いと力添えのおかげで、小さな命をつなぐことができたと感謝しています」 Sちゃんが本格的に学校に復帰できたのは2018年12月のこと。Sちゃんが倒れた2016年9月の登校日から、すでに2年以上が過ぎていました。 「今では、24時間私たちが付きっきりだった娘が一人で学校に行けるようになり、弟たちと遊んだり、ケンカしたりと、私たちが驚くほど元気に暮らしています。将来の夢は、ある日は『漫画家になる!』と言ったり、またある日は『ラグビー選手になりたい!』と言ったり、子どもらしくコロコロと変わります。 外の世界に自分の可能性を見出してくれているのが、親としてはうれしいかぎりです。これからも、笑い、遊び、勉強して、泣いて、怒って、悲しんで、喜んで、いろんなことを経験して、生きることを思いっきり楽しんでほしいと願っています」 AEDと胸骨圧迫による一次救命処置をきっかけに、まわりの人たちの必死の行動から始まった“救命の連鎖”は、その後も人から人へとバトンタッチされて、やがて海を越えてSちゃんの小さな命を守ったのです。
心臓に先天性疾患を抱える小児は、100人に1人の割合*1とされます。全国の学校には、Sちゃんのように心臓に持病を抱えながら学校に通う児童・生徒が数多くいます。そして、心臓突然死は1日約200件以上発生しており*2、健康な子どもや成人もある日、突然起こるリスクがあるのです。 持病のある子どもへの運動指導や運動強度は、教職員が使う『学校生活管理指導表』に疾患ごとに記されています。しかし、疾患や個人、治療状況によってリスク度合いや注意点は異なるため、重篤な病気がある児童・生徒がいる場合は、学校側は保護者ともよく相談して、できれば主治医への面談が推奨されます。 心臓疾患でも、病気によってはじっとしているときにリスクが高かったり、ICDやペースメーカーを埋め込んでいる場合など多様化しています。その子の症状にあった救命処置の方法や注意点など、医師のアドバイスを受けることや、学校勤務の養護の先生の意見に耳を傾けることも必要と言われています。
Sちゃんの通っている小学校では、保護者の参加を募ったAED講習会を開いており、Sちゃんのバイスタンダー(救急現場に居合わせた人)となったお友達のお母さんも、Sちゃんの件をきっかけにAED講習に参加されたといいます。 Sちゃんのご両親は「AEDは、自分の子ども、孫、親兄弟など“大切な人を助ける手段”として、社会に広く広まってくれたらと願っています。AED講習を受けるのは、自分の大切な人を守るため。その行動が、いつか自分の身近な人を助けることにつながるかもしれませんし、誰かの大切な人を助けることにも役立てられるかもしれない。そんな気持ちで私たちもAED講習を受けています」と話します。 大切な命をまもるため、学校や教育委員会、消防、行政、学校医など子どもを取り囲む人たちが連携して、子どもの心臓突然死ゼロにする取り組みが社会の中で進んでいけばと思います。(取材・文 / 麻生泰子) *1 合同研究班参加学会(日本循環器学会,日本胸部外科学会,日本産科婦人科学会,日本小児循環器学会、日本心臓病学会)「成人先天性心疾患診療ガイドライン」2017 年改訂版 *2 総務省消防庁「救急救助の現況」令和元年版
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