日本の借金は1105兆円*1にのぼりますが、もうひとつ、増えている“負債”があるのはご存じですか? それは「睡眠負債」。日本人の平均睡眠時間は7時間22分と、OECD加盟国27カ国中でワースト1位*2で、日本人の睡眠不足による経済損失は年間約15兆円*3という莫大な金額におよぶと試算されます。 「睡眠負債」とは、毎日少しずつ睡眠不足が借金のように積み重なっていくことで、積もり積もると生活習慣病やうつなどの心身の不調となって返済を迫られます。日本では脳科学者の枝川義邦教授(早稲田大学リサーチイノベーションセンター研究戦略部門)が唱え、大きな話題を呼びました。枝川教授は、睡眠負債は目に見えないものだけに「自覚がない人が多い」と指摘します。 「働き盛り世代で、最近物忘れが多くなった、うっかりミスが増えた、イライラしがち、風邪を引きやすいなど『昔はこうじゃなかったのに…』と感じることがあったら、まず睡眠負債を疑っていただくのがいいと思います。睡眠不足が常態化してしまうと、“なんとなく不調”がデフォルトモードになり、自分では自覚しにくくなる。だからこそ、いつのまにか負債がたまってしまうともいえるのです」 睡眠負債は、思わぬ心身の不調となって自分に返ってくるのですね。睡眠不足に気づくには、「朝・昼・晩」の生活リズムの切り替えタイミングに着目するといいそうです。 「朝目覚めたときにだるくてスッキリしない、昼前に眠くなる、夜ベッドに入ると気絶したように眠りに落ちる――これらはわかりやすい睡眠負債の三大兆候です。これらの症状を感じたら、これまでの睡眠習慣を一度見直してみることをおすすめします」
アメリカ国立睡眠財団によると、成人に推奨される睡眠時間は7〜9時間とされています。日本人の場合、睡眠時間6時間未満の人が約40%にものぼります(下図)。6時間未満の睡眠は、日中のパフォーマンスにどのような影響をおよぼすのでしょうか。 「ペンシルバニア大学の研究チームによると、6時間睡眠を1週間〜10日間続けると、1晩徹夜した人と同程度の認知能力にまで低下してしまうことがわかりました。さらに6時間睡眠を2週間続けると、2晩徹夜した人と同じ認知能力にまで下がりました*4。 6時間未満の睡眠が常態化している人は、自分では十分眠っているつもりでも、脳のパフォーマンスは確実に低下しており、本来の能力を発揮できていない可能性が高いといえます」 多忙な現代人は、睡眠を“非生産的な時間“ととらえがちです。しかし、脳は、睡眠中やボーッとしているときにこそ活性化すると枝川教授は話します。 「人と話していて誰かの名前を思い出せないとき、電車やお風呂でボーッとしている最中に思い浮かんだことはありませんか。これは、ぼんやりと安静状態にある脳の活動状態であるデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)のなせるワザだと考えられます。DMNとは、活動的な思考や注意を行わないときに脳が無意識に行う脳内ネットワーク活動で、いわば脳のアイドリング状態。このDMNが顕著になると、脳の中では過去の経験や情報が整理される。そこから新たなアイデアや発見がもたらされることがわかっているのです」 アインシュタインは髭を剃っている最中によくアイデアがひらめいたといいます。ドイツの化学者ケクレは、睡眠中に夢を見てベンゼン分子が円環構造をしているヒントを得ました。こうした例は古今東西に多くあり、歴史に残る偉人の功績には、まさにDMNが一役買っていたのかもしれません。 「生産性が高く創造的な仕事をしたかったら、まずは十分な睡眠をとることです。そして、人間関係や仕事からくる精神的なストレスを解消する意味でも、睡眠はとても効果的です。人とたくさん話すと、どっと疲れるという人も少なくないと思いますが、社会的コミュニケーションをつかさどる脳の部位はもともと疲れやすいのです。人間関係のストレスから生じる疲労の回復にも、睡眠はひじょうに役立ちます」
睡眠が、心身の健康や日中のパフォーマンス向上に大切であることはわかりましたが、働き盛りの世代は、毎日十分な睡眠時間を確保するのが難しいときもあります。その場合にできる睡眠の工夫はありますか。 「時間が取れないときは『質』を高めることが、もう一つのソリューションとなります。睡眠時間が短くても、質を高めればある程度までカバーすることができます。とくに現代は、眠りを妨げる誘惑や環境に囲まれているので、『睡眠時間×睡眠の質』の発想で、毎日の睡眠を自分でデザインする工夫も必要ですね。 私が心がけているのは、なるべく『まとまった睡眠』をとることです。6時間睡眠でも、連続で眠るのと、コマ切れで寝るのでは、睡眠の質が大きく異なります。睡眠中は、前半戦は疲労回復など生きていくために必要な睡眠の脳波が訪れ、後半戦は、記憶の定着やストレス耐性の向上など“よりよく生きるための脳波”に切り替わることがわかっています。コマ切れの短時間睡眠では、肝心の“よりよく生きるための脳波”が訪れないのです。 また、『睡眠時のITデジタル環境を整える』も解決策の一つ。最近、問題になっているのは寝る前のスマホ。文字や動画で次々に脳に刺激を与えるITデバイスは、脳を眠りから遠ざけて、脳疲労を蓄積させます。一方で、“睡眠デバイス”なるヘルスケアツールも登場しています。睡眠デバイスは、睡眠の質がわかる脳波や睡眠時間のデータがとれたり、安眠にみちびく音機能が搭載されるなど、科学的に睡眠の質を高める工夫が凝らされています」 食事と同じように、睡眠は生きていくうえで欠かせない行為です。従来は、睡眠の質やリズムを自分で把握することは困難でしたが、ウェアラブルデバイスが登場し、自分で簡単にモニタリングやコントロールができる時代になりました。睡眠負債が気になる人、睡眠時間が短いとお悩みの人、なんとなく不調を感じる人は、デバイスを使って一度自分の眠りをモニタリングしてみると、新たな気づきや改善のポイントが見つかるかもしれません。(取材・文 / 麻生泰子)
*1 財務省「長期国債債務残高の国・地方合計 2018年度末」 *2 OECDレポート、2018年 *3 RANDA Europe(2016):Why Sleep matters-the economic costs of insufficient sleep *4 Van Dongen et al,Sleep,2003
枝川義邦(えだがわ・よしくに) 早稲田大学リサーチイノベーションセンター研究戦略部門教授。東京大学大学院薬学系研究科博士課程修了。博士(薬学)、経営学修士(MBA)。早稲田大学高等研究所准教授などを経て現職。研究分野は、脳神経科学、人材・組織マネジメント、研究マネジメント。2017年「睡眠負債」で流行語大賞受賞。主な著書は『「脳が若い人」と「脳が老ける人」の習慣』『記憶のスイッチ、はいってますか~気ままな脳の生存戦略』『「覚えられる」が習慣になる! 記憶力ドリル』など。
深い睡眠の質を高め、日中の活力を高めることを目的に開発されたフィリップス「SmartSleepディープスリープ ヘッドバンド をはじめとして、よい眠りに関する様々な情報をお伝えします。