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健康とは、「毎日を楽しく充実して生きること」。自力と他力の治る力のバランスをとりながら、自分だけの「健康学」をつくる秘訣を、軽井沢病院副院長を務める稲葉俊郎先生に聞きました。

患者さんを“病気の世界”から日常に戻す医療

東大病院で先天心疾患の研究と臨床に携わってきた稲葉先生ですが、医療の最先端を離れて、臨床を中心とした現場に移ったのは、なぜでしょうか?
 

「僕は患者さんを知り、その方が困っていることを解決する力になりたいと思い、医者を志しました。ところが、現代の大学病院はひじょうに専門化・細分化しています。たとえば僕の場合、心臓の中でも冠動脈という数ミリの世界を究めていく。あまりに局所にフォーカスしすぎて、その人の身体性や生き方に寄り添った治療からどんどんかけ離れている気がしたのです。もっと人間全体を診る医療が実践したいと考え、より患者さんに近い場に移りました」
 

人間全体を診るという医の原点に戻り、東洋医学や東洋哲学、代替医療など幅広く修め、現在は軽井沢病院副院長を務める稲葉先生。稲葉先生にとって医療とは? 医者の役割とはなんでしょうか?
 

「患者さんを診断して、病名をつけて薬や治療を与えることが医者の仕事だと思われていますが、僕はむしろ、患者さんを“病気の世界”から日常に引き戻すお手伝いをすることだと思っています。
 

ある高齢の女性の認知症患者さんが訪ねてきたことがありました。胸が痛くてあちこちの病院で検査してもらったけど原因不明でお手上げ状態。困り果ててご主人と僕のところにやってきたのです。普段の生活を聞いてみると、『夜寝られない』という。家に閉じこもりきりで、毎日に楽しみがまるでないんですね。
 

僕は『1日を生きた実感がない。だから、寝るに寝られないのではないですか』とたずねました。その方の人生を聞けば、若い頃から習字が得意で、書道大会で優勝したこともあると懐かしそうに話すんです。だったら、今日から習字を始めませんか? なんなら僕の名前を書いて見せてくださいよ、とお願いしたのです」
 

「習字」という思わぬ処方箋に、驚いた様子の老夫婦でしたが、ご主人が準備を手伝い、女性は数十年ぶりに習字を再開することに。以来、毎日喜んで筆をとるようになったといいます。習字という楽しみができたことで、ご夫婦はだんだんと笑顔も増えて、女性は夜も眠れるようになり、体調も改善していきました。
 

「毎日習字が楽しみで、夜もよく眠れる――そうなれば、その人はもう病気とは関係ないところに立てたのです。よく『健康になるにはどうしたらいいですか?』と聞かれますが、僕は最大の答えは『毎日を楽しく充実して生きること』だと思っています。
 

障害や持病を抱えて自分は健康ではないと思う人もいるかもしれない。でも、それは人との比較でしかないのです。毎日に生きがいを感じて、おいしくご飯を食べてぐっすり眠ることができれば、健康だと胸を張っていい。健康は自分自身でつくれるし、決めていいのです。私たち医者は、患者さんを病気の世界に引きずり込むのではなく、日常に戻すお手伝いをするのが仕事。どうやったら、その人が『毎日が楽しくて生きていてよかった』と思えるか、その人らしく生きられるかを一緒に考えることが本来の役割なのです」

自分だけの「健康学」を打ち立てよう

稲葉先生の話を聞くと、健康を決めるのはお医者さんではなく、自分自身だと気づかされます。あらためて、健康とはなんでしょうか? 
 

「WHO(世界保健機構)は『健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます』と定義しています。
 

つまり、健康という概念には、西洋医学に欠かせないエビデンス(科学的裏付け)が存在しないのです。すべて自分基準でいい。自分が満たされていると感じるならば、すなわち健康。だから、大好きな習字で健康を取り戻した女性のように、暮らしの中に自分を満たす方法を見つけていけば健康につながっていくのです。
 

自分で自分を健康にする力を『自力』とすれば、医療は『他力』です。呼吸したり、ご飯を食べたり、運動したり、好きなことをして健康になるのが『自力』。一方、薬を飲んだり、治療したり、誰かの力を借りることは『他力』です」
 

自力と他力のバランスは、時と場合に応じて変わっていい、と稲葉先生は言います。
 

「つらいときは病院に行って薬をもらえばいいし、歩くことが難しければ人の手を借りる。そのときに応じて、自分に必要なものを取り入れていけばいい。でも、生きているかぎり、自力がゼロになることはありません。自分で工夫しながら、少しずつでも自力を増やしていく。それが自分にとっての健康学を打ち立てることなのです」

患者さんとじっくり対話ができる場をつくりたい

稲葉先生は、東大病院時代から、個人的に地域医療に参加して在宅医療にも取り組んできました。現在も軽井沢病院での診療の一環として、在宅医療を続けています。病院ではない場で医療を続ける理由とは?

 

「病院という場は、どうしても特別な力学が働いてしまうのです。つまり、医者が偉くて、患者さんが従うという力関係です。でも、患者さんの心と体を癒す場なのだから、患者さんが主導権を握るべきなのです。
 

在宅では、僕は患者さんのお宅にお邪魔している客になって、患者さんは主人という役どころに変わります。私は患者さんに命令するのではなく、患者さんに助言したり、サポートする役に徹することができる。患者さんが自分の体の主人として、治療の主役になれるのです。僕はちょっと医学知識のある友だちの友だちぐらいの脇役ポジションがいいのではないかと思っています」
 

稲葉先生が長野県・軽井沢に医療活動の拠点を移したのには理由があります。軽井沢は、古くは外国人宣教師らの別荘地として開拓された保養地です。宣教師たちはこの地を “屋根のない病院”と称えたといいます。過ごしやすい気候と自然と共存した環境――この場は、人を健康にする力で満ちていると感じたのです。
 

「医療が実践できる場は、病院だけではない。医者・患者という関係に固定せず、もっとニュートラルに対話ができる医療を実現していくことが僕の目標です。もちろん病院は病院としてあっていい。でも、病院からこぼれてしまう人たちのために、みんなが集い、生活や心身の悩みを打ち明けたり、話し合ったり、学べる“よろず健康相談所”のような場をつくっていきたいのです。
 

その候補地として僕が考えているのが、日本中にある温泉・湯治場、神社仏閣です。その合計数は18万軒以上、全国の病院・クリニックの合計数11万軒を上回ります。温泉や神社仏閣を訪れると、心身をリラックスさせる力があると感じます。僕はまず“屋根のない病院”と称された軽井沢から、医療者と患者さんが対話できる新たな場をスタートさせたいと考えています」
 

実際に、地元の信州大学などと協力して、あらたな医療の場をつくる構想は着々と進んでいるといいます。すべての人が自分の健康学を打ち立てられる医療を実現する――稲葉先生がめざすのは、誰もが自分の生活の中で、人生の中で健康を紡ぎ出していける、新しい医療のかたちなのです。(取材・文/麻生泰子)
 

稲葉俊郎 いなば としろう

医学博士。東京大学医学部付属病院循環器内科助教を経て、現在、軽井沢病院副院長を務める。西洋医学に止まらず、伝統医療、代替医療、民間医療も広く修める。未来の医療と社会の創発のため、伝統芸能、芸術、民俗学、農業など、あらゆる分野との接点を探る。

稲葉俊郎先生インタビュー2 「日本の伝統芸能に見出した医学の原点。芸術を「自己治療」に生かす新しい医療のかたち」はこちら

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